リノアとエレナは広場を離れ、森の北の小径へと続く道を歩き始めた。まず向かう場所はシオンの研究所だ。 シオンは村にとって有用な研究を行っていた。村の歴史や伝統だけではなく、自然と科学を融合したものまで多岐に亘る。シオンは多才な人だった。 シオンが残した足跡は、この村だけでなく森そのものにも深く刻まれている。村に生息する動植物の生態系についての深い知識を持ち、その鋭い観察力と独自の視点から新たな発見を生み出していた。特に苔や菌糸に対するシオンの造詣は驚嘆すべきものがあった。 苔が水を蓄える仕組みや菌糸が森を豊かにする役割について、シオンが語る様子をリノアはよく思い出していた。シオンはただ知識をひけらかすのではなく、森や自然の美しさ、そして、それらがいかにして命を繋いでいるかを人々に教え、分かち合っていた。「森の声に耳を澄ませるんだ」 シオンは子どもたちや若者たちにそう言って微笑んでいた。その教えはリノアの心の中にも深く根付いている。そして今、シオンがいない村でシオンの言葉がどれほど重みを持つか、リノアは改めて感じていた。 リノアは霧の中を見つめ、胸に抱える思いを整理しようと試みた。 シオンが森の異変に気付いていたことは、シオンの記録や話の端々からも明らかだ。そのシオンが抱いていた憂いと覚悟……。 森が何かを伝えようとしている——その確信がシオンにはあった。しかしシオンが森の異変に対してどのようなアプローチを試みていたのか、その全容はまだ明らかにされていない。 現在、シオンの研究ノートに目を通したのはエレナだけだ。しかしエレナはまだそのノートについて詳しくリノアに語ったことはない。ノートに記された難解な数式や図形、断片的な文章——それらが森の異変とどう関係しているのか、エレナ自身も完全には把握しきれていないからではないかと思う。 リノア自身もシオンの研究ノートに記された内容について、特に関心を示すことはなかった。森は特別な領域であり、リノアにはそれがどこか神聖なもののように感じられていたからだ。 シオンの声がもう聞けないという現実の中、彼が愛し、守り続けた森がリノアにとって次第に特別な意味を持つようになった。静寂に包まれた森の存在は、シオンの思いを受け継ぐべき場所としてリノアの胸に深く刻まれていく。 シオンの研究は一体、どこまで進んでいたのだろう
朝霧が地面を覆い、足元の苔が湿って柔らかい感触を返す。靴が石を踏むたびに、かすかな水音が響き、霧が膝下を這うように漂った。道の両側には畑が広がり、その向こうに森の輪郭が霧にぼやけている。 風が冷たく吹き抜ける中、リノアはシオンの形見である木彫りの笛を手に持ち、指先に力を込めた。笛の表面に刻まれた細かな模様がリノアの肌に冷たく食い込む。 あの時の村の若者たちの悲痛な声。それがリノアの耳に残響のように残っている。確かに森が弱ってしまったら、私たちは、もうこの地で生きて行くことはできないだろう。「クラウディアさん、本当は何か知っているんじゃないかな……」 リノアの息が白く霧に溶け、木々の間に漂う。 リノアの脳裏に浮かぶのは、クラウディアが去っていく姿だった。杖の先端が地面に触れる音が辺りに響き、霧の中へ消えていく後ろ姿。鋭い瞳には、どこか深い思案の影が宿っていた。それが妙に心に引っかかる。「あの言い伝えにある『災い』というのが気になるよね」 エレナが薬草の袋を肩にかけ直し、霧の中を見据えて言った。霧が森の奥へと広がっている。その深みへ吸い込まれるようにエレナの視線が固定された。 エレナは腰に弓を携え、背中には矢筒をしっかりと括り付けている。エレナの弓術は村でも一目置かれており、危険な状況や狩りの場で何度もその腕前を証明してきた。それはエレナの自信と冷静さを支える柱でもあった。 エレナは肩の薬草袋を背中に押し上げると、霧の向こうに向かって歩を進めた。エレナも森の奥に潜む何かへの警戒心が徐々に膨らんでいるようだ。 災いか……。 リノアはその言葉を聞いて胸の奥がざわめくのを感じた。 もし災いが起きたというのなら、シオンがその犠牲者だということなのだろうか? そんなはずはない。シオンは森を愛し、守り続けてきた存在だ。シオンが自然の怒りを買うはずがない。 霧に包まれた小道の両側にはぽつりぽつりと家が建っている。その静かな佇まいは日々の営みの平穏さを物語ったものだ。 この付近の人たちが騒いでいるところを見たことはない。ということは、問題が起きている場所は森の奥深くというのは合っている。まだ危機は村には迫ってはいない。「問題が起きているのは森の奥深い場所。まだ村そのものに危機が迫っているわけではないみたい。だけど時間は限られているんじゃないかな」 リノ
この村にはかつて誇り高い戦士たちがいた。しかし幼い頃に起きた戦乱で彼らは敗北を喫し、村の運命は大きく揺らいだ。 戦士たちの多くは村を離れ、村を降りて傭兵として働く者がいた一方で、一部は森の奥深くで静かな隠居生活を送ったと聞かされている。村を去った者たちの痕跡は殆どない。 その戦乱のさなか——リノアの父と母も姿を消した。 生死も行方も分からず、ただ「帰ってこなかった」という冷たい現実だけが残されている。幼かったリノアにとって、それは喪失以上の意味を持っていた。その体験はリノアの心の奥に消えることのない傷跡を残したが、それと同時にリノア自身を強くした。 時が経つにつれ、徐々に村ではリノアの両親について語る者が減っていった。戦士たちと共に消えた者たち……。それが今の村人たちの両親の記憶だった。 戦士たちがいた頃の誇り高い時代は、霧の向こうへ消えた過去のものだ。現在、村人たちは自分たちの手で日々の平穏を守り、ひっそりと暮らしている。 リノアは歩みを止め、霧の向こうに視線を向けた。見えない何かを探すように、その瞳は遠くを見据える。何も見えない霧の奥に答えのない過去が眠っているように感じられた。 だが、今のリノアはそれをただ受け止めるだけの少女ではない。 両親が愛した森、その森の沈黙が持つ意味を解き明かすこと——それこそがリノアが歩む理由であり、今の使命だ。 村を守る戦士たちを失って以降、森を取り巻く神秘的な要素も徐々に失われていった。かつては畏敬と共に語られていた森の存在は、日常の中で静かに埋もれて行くことになる。 リノアはその歴史を思い返しながら、頼りなく揺れている自分たちの影を見つめた。その影は村が誇り高い戦士たちに守られていた時代の堂々たる姿とは似ても似つかない。まるで儚い夢のように映っている。 その影は、まるでこの土地に刻まれた記憶の中で消えかけているようだった。霧の中に溶けていく足跡は、過去へと沈んでいくような感覚を伴う。 かつてこの村を守る盾となった者たちが消え去った今——村を守るのは私たちしかいない。息が白く霧の中に溶ける度に、森の奥で待ち受ける未知の運命へと立ち向かう覚悟が芽生えていく。 森が失ったその「神秘」を取り戻すため、そして真実を解き明かすためにも、この先の一歩一歩が重要なものになる。
リノアとエレナが霧深い森を歩いていると、前方から杖をついた小柄な老婆が現れた。その隣に老婆に寄り添う形で、革鎧に身を包んだ背の高い女性戦士が腰に短剣を下げ、鋭い視線で周囲を警戒している。リノアと同じ年齢くらいだろうか。私よりは少し年上に見える。 老婆はリノアたちを見て立ち止まり、付き添う戦士もその動きに合わせて足を止めた。老婆の背は曲がり、濡れた白髪が顔に張り付いている。「お前たちも見に来たのかい? 森の変化を」 老婆のかすれた声が霧の中で響いた。 リノアはその言葉を聞いて、胸の奥にある違和感がさらに強くなるのを感じた。 森に足を踏み入れてからずっと森の異変を感じていた。耳を澄ましても、鳥や虫の声がまるで消え去ったかのように聞こえない。足音を立てても、それはすぐに霧に飲み込まれ、森に響くことはなかった。 リノアは足を止めて老婆を見つめた。 老婆の目には不安と鋭い洞察が宿っている。 付き添いの戦士は無言で手を短剣の柄に軽く添えている。しかし、それは二人を警戒しているからではないようだった。いつ周囲から何かが襲ってきても対応できるようにしている雰囲気を醸し出している。「うん、私たちも気づいてる。森の声が聞こえない。まるで沈黙しているみたいに……」 リノアと老婆が会話を交わすその隣で、エレナが弓を軽く握りしめながら周囲を見渡した。静寂に包まれた森は何かが潜んでいるかのような不気味さを帯びている。 エレナもだ。目の前の二人をまるで警戒していない。「こんなことは初めてじゃ。わしの村も周囲の村も森が沈黙し、人を狂わせ始めとる。いつもと異なることが起きる時、それは何かが動く兆しと思ったほうがええ」 その瞳には、長年生きてきた者だけが持つ深い知恵が宿っている。 老婆は言い終わると杖を突き、ゆっくりと歩き始めた。付き添う戦士がその後に続き、二人とも霧の中へと進んで行った。 老婆の姿が霧の中で不吉に揺らめき、戦士の革鎧が微かに軋む音が反響する。 「今の人たち、誰だろう? 村に行くみたいだけど」 リノアが呟いた。リノアの視線は霧の中へ消えていく老婆の背中を追っていた。「分からない……。でも何かを知っているみたいだったね」 エレナはわずかに首を傾げ、霧の向こうに目を向けた。その声には、どこか老婆の言葉が引っかかっている様子が滲んでいた。 霧の中を進
霧を抜け、古びた門を潜った老婆と女性戦士はリノアの住む村へと足を踏み入れた。 二人が村の広場に差しかかると、見張り役のトランとミラがその姿を見つけ、すぐさま警戒の目を向けた。「何者だ! 止まれ!」 トランの若々しい声が響く。その言葉に老婆は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。「落ち着きなさい、若者よ。私はグレタだ。この村の村長であるクラウディアの古くからの友人だ」 かすれた声には落ち着きがあり、トランとミラは互いに視線を交わした。迷った末、ミラが広場の端に立つクラウディアのもとへ駆け寄った。「クラウディアさん、村に二人の訪問者がいます。一人はグレタと名乗り、もう一人は付き添いの戦士のようです」「グレタ……?」 クラウディアは眉をひそめた。「ミラ、二人をここに連れて来てちょうだい」 ミラの案内で、グレタと戦士の二人は村の広場を横切り、少し離れた位置に佇む古びた家へ向かった。道中、グレタは杖を頼りに足を進め、付き添いの戦士はその隣で一言も発さずに歩いた。「グレタさん、こちらです」 ミラがそう告げると、二人は家の前で立ち止まった。 クラウディアの家は他の村人の家と比べても特に造りが立派なわけではない。しかし、どことなく歴史を感じさせる。長年の風雨に耐えてきたのだろう。質素に見えるが、その空間に宿る厳かな存在感は他の家々とは異なるものがある。「クラウディアよ、出ておいで。話したいことがあるんじゃ」 老婆のかすれた声が扉越しに響いた。付き添いの女性戦士は無言のまま老婆の背後に立ち、鋭い視線を森の方に向けている。 沈黙の後、木戸がきしみながらゆっくり開いた。 中からクラウディアが姿を現す。七十歳ほどの年齢にもかかわらず、彼女の背筋はまっすぐ伸び、堂々とした姿には若々しさが感じられる。 クラウディアの顔立ちは、この村で生まれ育った者のものではない。特徴的な彫りの深さと異邦の香りをまとった表情は、彼女の過去に何らかの秘密があることを示唆していた。「クラウディア様、こちらの二人です。それでは失礼いたします」 ミラは軽く頭を下げた後、戦士に視線を移した。初めて戦士を目にした時からその雰囲気には圧倒されていたが、それが女性であることに気づいた瞬間、ミラはさらに戸惑いを覚えた。 女性戦士の表情には厳しさが刻まれ、その鋭い目つきがミラの心を突き刺す。
グレタは杖を手にゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。その背中には何かを解き明かさなければならないという強い使命感が漂っている。グレタは戦乱の後に村長を務めるようになった人物だ。「レイナ、お前は外で待っておれ」「はっ」 レイナは短く答えると、その場に足を固定したように立ち続けた。 レイナの動きには一切の無駄がない。いつでも動ける体勢が整っていることがはっきりと分かる。レイナの視線は依然として霧の中を鋭く見据えていた。霧の中で待機するレイナの影は静寂そのものと一体化しているかのようだ。 レイナの冷静さと緊張感が空気を引き締める中、家の中ではグレタとクラウディアの話が始まろうとしていた。 部屋は薄暗く、薬草の匂いが漂い、壁には古びた地図と乾いた薬草の束が無造作に掛けられている。 クラウディアがグレタの様子を伺っていると、グレタが低い声で切り出した。「わしの村では森の異変が人を狂わせ始めとる。星の光が弱まり、薬草の効能が薄くなってきた。植物が成長していないということじゃ」 グレタはクラウディアをじっと見据えたまま、言葉をさらに続けた。「あの戦乱の前もこんな感じじゃったな」「ああ、確かに似ている」 クラウディアは一言だけ返した。 グレタの目的が未だ見えない。目的が何なのか、それがはっきりと分かるまでは余計なことを話さない方が無難だ。「お前の村では名家の血を引く少女が動いとると聞いた。確かリノアと言ったな。シオンのことは……残念だった」 クラウディアはその言葉に反応し、表情を険しくした。「シオンの死まで他村に知れ渡っているとはね」「シオンは名家の子じゃ。それに村々での交流が続いておる。噂はすぐに広まるよ」 グレタの目は鋭く、クラウディアを探るようにじっと見つめている。 クラウディアは小さく息を吐いた。 村同士の繋がりが生む情報の流れ——それは理解している。腑に落ちないのは他村の者が訪れ、シオンの死を持ち出したことだ。「グレタ、何が言いたいの」 クラウディアはグレタをじっと見つめた。瞳の奥に宿る警戒心を隠そうともせず、わずかに顎を引いてグレタに問いかけた。 その声は冷静だったが、内に秘めた疑念がかすかに震えているようだった。クラウディアの視線はまるで一歩も引かない防壁のように鋭く、グレタの言葉の裏を探る意志が明確に表れていた。 クラ
クラウディアはテーブルの縁を強く握り、指先が白くなるほど力を込めた。 グレタの顔にためらいの表情が浮かぶ。グレタは静かに息を吐き、杖を握った手を緩めた。「『龍の涙』を狙う動きがあると聞いたんじゃ」 グレタは杖を地面に軽く突き、背を伸ばしてクラウディアを見据えて言った。「『龍の涙』は伝説に過ぎないと笑う者もおる。だが、わしはそうは思ってはおらん。シオンが死んだ事と、『龍の涙』を狙う動きが繋がっておるのではないか——わしはそう感じておる。わしがこの村の状況を探りに来た一番の理由が、それじゃ」 グレタの声には老いた声とは裏腹の揺るぎない力強さが宿っている。グレタは間を置かず。畳みかけるように続けた。「森が沈黙し、村々に異変が広がっておる。わしの村では木々が黒く枯れ、夜空から星が一つ、また一つと消え始めとる。人々は夢の中で叫び、目覚めても正気を失う。リノアとやらの星詠みの力が本物なら——その答えに近づけるかもしれん。この危機の中心に何があるのか、突き止めて欲しいのじゃ」 クラウディアはグレタの言葉を静かに受け止めながら、その真意を探る視線を向けた。 クラウディアの表情には緊張感が漂っている。内心で慎重に考えを巡らせている様子がうかがえる。「『龍の涙』だと? シオンの死がそのような言い伝えと繋がっていると言うのか?」 クラウディアの声が室内に鋭く響いた。 声の震えと共に滲み出る感情は抑えることのできない困惑と怒りを映し出している。その姿は、村の守護者である彼女の心の葛藤を如実に表していた。 グレタは目を細め、クラウディアの動揺を受け止めるように視線を合わせた。「そうじゃ。もはや『龍の涙』はただの言い伝えではない。わしの村を含め、いくつもの村でそれに纏わる異変が起きておる。シオンの死が直接それと結びついているとはまだ断言できん——じゃが、シオンはいつも森で研究しておった。関わっていないはずがないじゃろう」 その声には冷静さと確信が込められ、隠そうとしない姿勢がうかがえた。 クラウディアは拳を握りしめ、息を深く吸い込んだ。唇の震えを抑えながら、鋭い視線をグレタに向けた。「シオンが森で命を落としたことが、村の運命を変えた。それを否定するつもりはない。でもリノアを無理に動かそうというのなら、私には反対する理由がある。私は償うために、この村にやってき
「償い? まあ、いい。お前にも背負うべきものがあるのは分かっておる。じゃが、その想いだけで未来を縛りつけることがあってはならぬ。それは、お前も分かっておるはずじゃ」 そう言ってグレタは眉をひそめ、次の言葉を慎重に選びながら考え込んだ。ランプの揺れる光が二人の表情を曖昧に映し出している。 グレタは目を細め、杖を握る手に再び力を込めた。「巻き込むつもりはない。だが森の異変は名家の血と切り離すことはできん。リノアがどんな力を持っているか、それを知らずに、この状況に目を背けておれば、いずれこの村も他の村も滅びることになろう」 クラウディアの視線がグレタを貫き、グレタの瞳が静かにその挑戦を受け止める。二人の間に漂う緊張が霧が濃さを増すように部屋を満たしていく。「クラウディアよ」 グレタが立ち上がり、ゆっくりと杖を動かした。「この異変はお前の村だけの話ではないんじゃ。シオンが亡くなったことで状況は、より急を要しておる。シオンが誰に殺害されたのか、『龍の涙』を狙っている者は誰か——それを知る必要がある。どうじゃ、力を貸してくれんか」 二人の会話を聞いていたかのように家の外で風が唸り声を上げ、窓枠を激しく揺らした。この対話の結論を森が待ち望んでいる......。 クラウディアは目を細め、考えを巡らせるようにグレタを見つめた。グレタの言葉は明瞭だ。嘘はついていない。 グレタの視線は揺るぎなく、クラウディアの反応を伺ったままだ。揺れるランプの光が陰影を作り出し、クラウディアの動揺を一層浮き彫りにした。 張り詰めた空気の中。クラウディアは深く息を吐き、そして窓の外に目をやった。心の奥底にある不安が波紋のように広がっていく。「シオンの死については……まだ不確かな部分が多い」 クラウディアは慎重に言葉を選びながら口を開いた。しかし思考の中にわずかに停滞が見られた。「勘の良いお前のことだ。何か思い当たる節がありそうじゃな」 グレタはクラウディアの動揺を見逃さない。杖で身体を支えながら、低い声で問いを投げかけた。 クラウディアは黙り込んで額に手を当てた。その沈黙は部屋の空気をさらに重くし、二人の間に漂う緊張感を一層深めていった。 窓越しに見える霧が、まるで森全体を覆いつくそうとしているかのように揺れている。それは静かに、しかし確実に二人を取り巻く状況の深刻さを強
あの幼かった日のことが想い出される。 あの日、リノアは広場の端に一人で佇み、父や母と楽しんでいる友人たちを眺めていた。 子どもたちは駆け回り、大人たちは屋台で買った食べ物を手に笑い合う。誰もが笑顔で楽しそうに言葉を交わしていた。 しかし、そんな賑やかな光景を目の前にしながらも、リノアの心はどこか遠く離れていた。 俯いたままのリノアを気に留める人はいない。リノアには村人たちの笑い声が遠い世界の出来事のように感じられた。 ひと息ついて、リノアは広場をそっと見渡した。けれど、笑い合う人々の中でリノアの視線に気づいてくれる者は誰もいない。 リノアは広場の賑わいから目を背け、再び地面に視線を落とした。足元の小石をつま先で転がし、手をぎゅっと握りしめる。 どうして私だけ…… 佇んでいた時、どこからともなく足音が聞こえた。誰かが駆け寄って来る。「リノア、これあげる」 見上げると、そこには兄のシオンが立っていた。手には笛が握られている。 戸惑いながら笛を受け取ると、シオンはそのまま何も言わずに、広場の向こうへ立ち去った。 私はただ、その背中を呆然と見つめた。 シオンに手渡されたのは、緻密な彫刻が施されたヴィーンウッドで作られた笛だった。その木目は滑らかで美しく、手の中に優しい感触を残した。 ◇ 夜風が頬を撫で、現実へと引き戻されたリノアはシオンに貰った笛を眺めた。木の温もりが肌から胸の奥にじんわりと伝わってくる。この感覚は、あの日、初めて笛に触れた時と同じものだ。 ほんの少し前まで父と母と手を繋ぎ、皆と同じように満面の笑みで広場の中心ではしゃぎ回っていた。その幸せは永遠に続くものだと信じていたのに…… 突然すぎる別れが、その幸せを容赦なく奪い去っていった。 心にぽっかりと空いた穴は埋める術もなく、ただひっそりとそこに居座り続けているばかり。 シオンは、そんな私を元気づける為に母から受け継いだ大切な笛を譲ってくれたのだ。 あの頃のシオンは多くを語らず、不器用で自分の優しさを言葉にすることが苦手な人だった。でも、その無骨な優しさこそが、私には何よりも愛おしく感じられる。 私の心はあの日、壊れてしまった。それを誰かに話すことも、共有することもできず、ただ日々の中で飲み込んで
森は呼吸しているかのように穏やかな気配を放っている。もう今日は誰も襲っては来ないだろう。 リノアは疲れ果てたトランが眠りにつく様子を見つめた。無邪気な寝顔をしている。日に焼けた頬とほんのりと紅潮した鼻が愛らしさを引き立てている。 トランは今日、クラウディアから託された手紙をしっかりと抱え、森の中を一人で歩いて来た。夕方以降という危険な時間帯にもかかわらず、怯むことはなかった。トランは役目を果たそうと必死だったのだ。 トランが必死に任務を遂行する姿を想像すると、胸に込み上げてくるものがある。きっとトランに無理をさせている。 クラウディアさんがトランに手紙を託したのは、彼に困難を経験させ、成長の機会を与えたいという願いが込められていたからに違いない。 それだけ村の置かれている状況が深刻なのだろう。だからこそ、クラウディアさんはトランにあえてこの役目を任せ、未来に繋がる力を育てようとしたのだ。「乗り越えなければならない壁……か……」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、もう一度トランの寝顔を見つめた。 きっとトランは、この経験を通じて、より逞しく成長する。 リノアはトランの髪を軽く整えると、そっとその場を離れて机に向かった。 星見の丘での出来事をクラウディアさんに伝えなければならない。 研究所内はインクや薬草、埃の香りで満たされている。落ち着きのある空間だ。 リノアは書きかけの手紙に目を落として、再び手を動かした。 この辺りの村民ではない、見知らぬ人たちが古木の根元で鉱石を掘っていたこと。その人物が「生命の欠片ではない」と口にして悔しがっていたこと。掘り出した光る水晶のような鉱石を使った際、周囲の草花が枯れたことやシカが荒れ狂った様子。そして、シオンと繋がりがありそうなラヴィナに会いに行くこと。 これらの事実をリノアは淡々とした筆致で書き留めていった。 ふと目を上げると、机の上にシオンの持ち物が散乱していることに気づいた。ガラスの瓶や星の紋章が刻まれた道具箱、そして獣を撃退した際に触れたペンダントと同じ種類の鉱石……。──この鉱石はペンダントと同じ効果を発揮することはなかった。おそらく加工されたペンダントには何らかの特殊な技術が使われている……。シオンの研究の結晶なのかもしれない。 ペンダントが光を放った際に現れたビジョンの記憶がリ
「だけど、どうして私の能力や龍の涙のことを知っているんだろう」 そう言って、リノアは深く息を吸い込んで、そして続けた。「シオンが亡くなったことまで知ってるなんて……。グリモナの村と交流はあるけど、そこまで密接な関係でもないのに……。何か目的があって、私たちに近づいてきたとしか思えない」「確かにね」 エレナはリノアの言葉に同調し、真剣な表情で話し始めた。「グレタの態度には何か違和感があった。穏やかに話していたけど、視線が鋭くて、私たちの話を探っているような感じだった」「随分と森のことを心配している様子を見せていたのに、その言葉の裏に別の意図があったってことか……」 リノアは表情を曇らせながら言った。「まだ分からないけど、その可能性もあると思う。私たちがどこまでのことを知っているのかを探っていたとかね」 エレナは冷静さを保ちながら慎重に言葉を紡ぎ、少し間を置いて、さらに続けた。「いずれにしても目的が分かるまでは注意しないとね。クラウディアさんが言うには、他の名家たちも龍の涙を狙っているってことだし」 エレナとリノアの間に漂う空気が、一層引き締まった。「そうだね……」 リノアは息を整えながら、視線を手紙に戻した。 グレタの動向は気にしなければならない。だけど、レイナの様子も気になる。 レイナの森の奥に意識を向ける態度は一見、無関心に見えた。だけど、あの人は何かを隠している。 もっと深い何か別の計画があってもおかしくはない……。「何だか大人って汚いよね。裏表があってさ。やな感じ」 トランが少し不機嫌そうにぼそりと呟いた。 トランは少し口を閉ざした後、視線をリノアたちに向けた。その目には、何かを確かめたいという切実な思いが宿っている。「ねえ、リノアたち、ラヴィナのところに行っちゃうの?」「うん。私が村に留まれば村に争いを呼び込むことになるしね」 リノアが言った。「そんなことないよ。戻って来てよ」 トランが不安そうに言うと、リノアはトランの方を向いて微笑んだ。「行かなければならないし、クラウディアさんも旅立って欲しいと思ってるから……」 そう言って、リノアは視線を遠くに向けた。「そうかもしれないけど、きっとクラウディア様はリノアを逃がそうとしているのだと思うよ。村に居たら危ないから。何か、そんな気がするんだ」 トランの表
「気になるのは……」 エレナが口を開き、眉を少し寄せながら思案深げな表情を浮かべた。「グリモナ村の村長グレタ、そして女性戦士レイナよ。この二人が何の目的でリノアについて尋ねてきたのかがはっきりしない。クラウディアさんは注意するようにって、警告してくれてるけど……」 エレナが警戒して言った。「グレタとレイナってどんな人たちなんだろう」 リノアは手紙を見つめながら、小さく呟いた。「トラン、見張りをしていたなら、この二人に会っているんじゃないの?」 エレナの問いかけに、トランはすぐに答えた。「もちろん、会ってるよ」 トランは得意げな口調で答えた。「その人たちは昨日の夕方に村に来たんだ。グレタって人はクラウディア様より老けていて、レイナって人は背の高い女の人。様子は普通じゃなかったよ」 トランは見張りの時の光景を思い出しながら語った。「普通じゃなかったって、どういうこと?」 エレナが眉をひそめ、慎重に問いかけた。「何ていうか……言葉では上手く説明できないんだけど、あの二人は何かを隠しているように感じたんだよね」 トランが自信なさげに言った。「もしかして……昨日、道ですれ違った二人のことかも」 リノアがハッとした様子で目を見開いて言った。「そう言われてみれば……。きっと、あの二人だわ。あの二人で間違いないと思う。あの時は、ただの旅人だと思ってたけど」 エレナもその場面を思い返し、真剣な表情になった。 部屋に緊張感が漂う。 トランの言葉とリノアたちの記憶が繋がり、グレタとレイナが単なる訪問者ではないことをリノアたちに確信させた。 グレタたちが何を目的としているのか、その意図が見えてこないまま、不安が増幅していく。「その二人がグレタとレイナなら、グレタとは直接、会話を交わしてる……」 リノアは記憶をたどりながら、慎重に言葉を選んだ。「でもあの人たちってリノアのことを、リノアだと気づいてなかったよね」 エレナは真剣な表情で言葉を発した。「私やシオンのことを人伝に聞いて知ったってことなのかな」 リノアは手紙から目を離し、少し考え込むように言った。「付き添いの女性、レイナは殆ど口を開かなかったわね。あまり私たちには関心がなさそうだった。意識を常に森の奥に飛ばしていたし」 エレナも記憶をたどりながら言葉を発した。 レイナか。
手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし
「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この
リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込
「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震